2011年5月15日日曜日

家族というプラットフォーム

この仕事をするようになって一番感じるのは、サラリーマンの頃はほんとに外ばかり、で辞めてからは家族が第一、とその環境の変化の大きさ。
別にマイホームパパとかそういうの言うつもりじゃなくて、父親はいっつも外で仕事だけして、母親は家事育児、そんな典型的な核家族における夫婦分業制ではなく、僕も妻も目指すものを共有した上でお互い発展しながら家族を育んでいこうじゃないかそして大事にした分だけ家族が皆を育む器になる、家族という場がめざすのはそういう和というか命の循環が生まれるようなプラットフォーム。
このことはつまり、逆に、自分も妻も、お互いにいい意味でプレッシャー掛け合っていられるってことなんだとも思う。勝手に自分の役割を個性化・固定化して硬直してや居ないか?それってつまりコストやリスクを積極的に取りに行かずに守りに入って生産行動を抑制していないか?ってな感じで、お互い相手の仕事がわかるからこそ指摘もしやすいしフォローも入れやすい、というメリットを活かす方向で。
確かにその分時間はかかると思う。男は男の得意な領域、女は女の得意な領域、それぞれ確かにある。でも、肉体労働してるわけでもない限り、実際ホワイトカラーでそんなに差があるようには思えない。それって単に上司がほとんど男だからでしょ?そういう既存のヒエラルキーの問題でしょ?たぶん決定的にあるのは生殖に関する部分、女性は産むことを意思できる、男性はできない、だけ。出産という局面に際してコントラストはピークに達します。男からするとある種の神々しさすら覚えます。そんなだから男はそのまま置いてけぼり食ったりするんだと思います。そしてそこを自分の持ち場と勘違いして勝手に自分の役割を個性化・固定化して硬直して、男が頑張れば頑張るほど産んだ女性は神聖さのフレームの中央から離れ難くなってしまうそんなジレンマに陥らないように、お互いに男らしさ女らしさを持ち合えればいいと思う共同作業で授かった子を一緒に育てていけばいいと思う。子育てと家族を育むことは添っていく。少なくとも僕は、僕と妻との間ではそうすることがとっても重要だと感じたし、そうやって築かれる家族というプラットフォームとうまくソケットしてくれる可能性がゼロだと判断したのでサラリーマンを辞めたんです。
そんでもって選んだ仕事がせどりだったんですけど、この際せどりで良かったかどうかはさておき、自分たちで家業を起こし実業をスタートする、まぁつまりは起業ということになるんでしょうけども、それが今の自分たちにはうまくフィットしてくれてるんじゃないかなと思うわけです。いや、もうそう信じてやるしかないって感じですらあります。
あとは、環境や周囲の状況に左右されないで、自分たちの軸、自分たちの夢・理念、そういうの持ちつつ、柔軟に、場合によっては自分たちの軸・理念を平気で曲げられるような、そんなしなやかさが必要なんだろうな、って思い。
なんじゃかんじゃと色々綴ってますが、こういうこと、とりあえず吐き出せるような今を過ごしてるのも、子供ができたからなんだよな。惚れた女と一緒にいつのまにか親になってて、その状況がまずあって、そこから初めて物事組み立てて・・。
千葉に居た頃、妻と一緒にミニ盆栽2鉢買って育ててみたものの、あっという間に枯らしてしまって、なんかそのときの自分の荒んだ状況に思いやられもしましたが、いま、娘が保育園からもらってきたトマトの苗木は、ベランダのビル風吹きすさぶ中、小さな鉢にしっかり根をはって日ごとに葉を茂らせています。毎朝娘とトマトの苗木に水をやりながら自分とトマトを重ねてみたり、なにかぐっと来る事ひとつでも思い浮かべたいと思ったり。

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