2011年12月18日日曜日

ウォッカと珈琲

先週の金曜に、とあるネット媒体を主宰されているジャーナリストの方と、妻と私でお会いして2~3時間ほどの取材を受けるという機会がありました。
近所のカレー屋さんでランチしながらの顔合わせ・情報交流、それから自宅に移動して写真撮影。
話題は主に現在うちがやってる商売について、それから今後のお互いの方向性について交流させていただきました。
とても有意義なやりとりをさせていただきました。
記事が公開となった時には改めてここでご紹介できればと思います。


その夜は妻の大学時代の友人(ロシア語学科の同級生)が遊びに来るということで、ロシア・酒ならウォッカだろ、ということでウォッカを近所の酒屋で購入しておもてなし。
我ながら見事な短絡ぶりなり。


今月の頭は10年来の友人と飲んで話す機会があったんですが、その際話したことと言えば、来年あたりはお互い転機になりそうだ、なんてこと。
風と帆、そんな喩えで、動と静にまつわる世相についての洞察をよくした、なんて言うとちょっと眉唾な感じがしなくもないですがw、要するに彼も僕も、世の動きの中に自分の進むべき道を見出していくための準備が整いつつあることを、そうじゃなきゃなんないってことを確かめあった、そんな夜だったのかなぁと。
そんな矢先での取材の話だったんで、友人と交わした酒の席を思い起こした次第。


昨日は出品作業を80点ほど。
のち本棚を三架設置。
そして夕方から家族で横浜に劇団四季のキャッツを観に。
子供達の興奮はカーテンコールの終わる最後の瞬間まで醒めることなく、感動に浸っているようでした。
しかし、乳児含む子ども四人連れて舞台を観にいけるのって、ちょっと考えるとプリキュアや戦隊・ライダーなんかのショーとかおかあさんといっしょライブとか、お子様向けイベント以外ではそうそうない気がします。
演出の流れを壊さないようにぐずった子どもを遮音の別室にすみやかに誘導、このためのスタッフを客席に大勢配置しています。
さすがだなあ、プロだなあ、むかし舞台に関わっていたこともあってその思いは一入でした。


言ってみりゃ当たり前のことなんでしょうけど、商売にはいろんな相があるなぁというのを、ヒヨッコなりに最近よく思います。
経済にも躁鬱がある、なんて言い方あるみたいですが、似たようなものを感じます。
企業でも個人でも、何かしらの商行為をする際に、この躁鬱の諸相に在っていかに行動するか(行動しないという選択も含めて)ってのは、商行為の主体が人間である限り、人間の活動に躁鬱というサイクルがある限りついてまわる問題だよなー。
自分一個の裡にあるその躁鬱のサイクルというものも、この問題を商行為上の問題と思って俯瞰してみると、実は裡にあるサイクルというのは既にほぼ消失していて、自分の商売が沿っているサイクルの上に移ってしまってない?
要するに、躁鬱に対する視線が、一個人としての自分の裡から個人の総体としての経済へと移っていくという過程、それがこの一年半の間で起こったのかなってのがヒヨッコなりの感触。
そしてやると決めたらやる(いまはまだ動かない)、それはいい、では「やると決める(まだ動かない)」ってのはいついかなる時か、その瞬間をどうやってつかまえるのか。
商売ってそんなことの集合体だなぁ、経済ってそんなことの集合体なのかなぁ。グっとくる瞬間ひととき、みんなの、そういうの集められるのかな、集めてみたいのかな俺、みたいな。
忙しくしていて一杯の珈琲を淹れる時間も惜しむような平日を過ごす一方、この一杯の珈琲を淹れるということと一冊の本を売ることってのは本質的におんなじことなんじゃなかろうか、この珈琲の香りと苦みには遠くアフリカの人々の労働の汗や苦悩とそれを受けとめる雄大な風土がある、そんな思いとともに日曜の午後を過ごしました。


とりとめないですが、今年も残すところ2週間を切ったところで、鬱とは無縁の4人のチビ達に囲まれながら、来年に向けて、ヒヨッコなりになにかっつーとまとめようとして途中で投げ出すいつものアレを今日もやったなぁってことで、今週はおしまい。

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