2012年9月7日金曜日

NO.4

正直、妻と一緒だったら何処でもいい、子供たちもいずれ自分の伴侶と出逢ってそれぞれの居のことを考えたらいい。僕らときたら、もしかしたら岩手の郷里に帰るかもしれないし、自由が丘とか田園調布とか優雅な趣味暮らしを指向するかもしれないし、全く暮らしたことのない場所、海外とか、ロシア?グルジア?トルコ?アラブ?ヨーロッパ?辺境?孤島?なんて、イメージは何処までだって馳せるし実際何処でもいい妻と一緒だったら何処でもいい。

小2長女は、庭付き戸建に住みたいと言う。
2〜5番目からは特にコメントを聞かない。
妻も特にこだわりはないみたい。
多分僕と同じ考えだと思う。

現在は家族7人、文京区で2LDKの賃貸マンションに仕事場兼ねて暮らしているけど、慢性的なスペース不足。
子供たちはどんどん大きくなるし、在庫や資材の置き場所にも困る。
情報だけを売っているひとは在庫を持たないから気にならないだろうけど、モノを扱う以上、場所のチカラはとても大切。
モノを活かすために、場所のチカラ、空間のチカラをもっと活かさないといけない。
いや、活かすというよりは、活きた場所・活きた空間を拵えて、そのことからチカラを貰うというべきか。

しかし、場所に縛られてはよくない。この場所じゃないと出来ない、そういう制約をもたらしたくはない。その場所ならではの何か、ということもあるだろうけども、その場合だって場所がことを起こすわけじゃあない。ことを起こすのは言わずもがな、ひとで。
やはり、ひとが場所を活かし、活きた場所がまたひとを活かすんだな。

僕と妻とふたり降り立つ場所が初土であって、そこが何かが始まるための土壌であり、それはつまり棲家だ。
舎という字には、人としての最初の暮らしを始める場所という成り立ちがあって、四番目の舎女(おきめ)がうまれたとき我家はまさに文字通りの状況で。だから、舎女とは暮らしを立てる場所の女として名付けたのです。舎女がそこで創めることそのものに意味があるし価値もはたらきだす。
僕らは舎女に活かされてる。

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