2012年11月12日月曜日

詩とビジネス 2

この週末は楽しくも考えること感じる事多し、の二日間でした。
大学中退してまもなくの頃丸の内のある郵便局で深夜勤していた頃からの付き合い、披露宴でスピーチもしてもらい、お互いに子持ちになってからもちょいちょい語らって来た友人が、家族揃って泊まりがけで遊びに来てくれたのでした。
何話したんだっけな、論語と算盤とか、マウイとか、スミヤバザルとかw
みんなでおにぎりにぎって外で遊んで食べて、たくさん笑って。

そして麻衣子も商売のこと、自分なりの言葉で語ろうとしていて、それでまずその自分の言葉で語り始めようとしていることがきっと重要で、そしてある程度まではその事だけでビジネスでのひと巡りはじゅうぶん可能で。
ただ、それだけで世代交代を迎えるようでは意味がなくて、ひと巡り終えたあとのシーズンを人生の最も奮いどころとして走り抜けてもうすぐもうすぐ、だね、やっぱり僕ら夫婦ふたりして、ふたりだからこその言葉を放ちはじめたいのだと僕は思う。
これってやはり挑戦なのかな。

僕と麻衣子のふたりの名であっても、ふたりの思いもふたりの考えも、一つの言葉にのせて放ってみたい。
逆行しちゃってるかもしれない。
でも、だって、それをやらないかぎり、僕らは何をやってもウソになってしまうし、ましてや自分のウソに気づかないまま始めてしまうことは取り返しのつかない事態を自分で回収できなくするのだし。
ウソがマコトと成り、ウソをやめようとしてマコトから外れる、そうはなりたくない。
だから、僕は僕の言葉で語る、麻衣子は麻衣子の言葉で語る、それはそれ、僕や麻衣子の顔をした個々人が、それぞれの声でそれぞれを成り立たせている全身全霊を以て仮託してゆく。
それはその通り、その通りとしてその上で、それぞれが僕たちふたり分の言葉を世に向けて放つ。
その言葉とは、ある時はビジネスという形を取って表されるものであってもいいと思うが、それはビジネスのためではなくて、それは結局ビジネスだったんだという程の差で。
その事を貫き通した先で待ってるひとたちの顔をきっと僕は懐かしむだろうし、この点について僕は幸いにして妥協を知らない。
他はなんでもいいんです。あらゆることがいい。

さてさて、何のために生きてみようか。
僕らはこの選択について絶対的に自由なはず。
だから、その代わりと言ってはなんですが、残念ながら僕ってのは死なないんですね。
死ねないじゃなくて死なない。
「美しい」という言い方を知らないまま、美しさを頼りにして僕は死なない。

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